koujikoujikun’s blog俳人コウジの日記

俳句をたしなんでおります。よろしくお願いします。

第二芸術論

桑原武夫の第二芸術論の話をTwitterでも述べたのだけれども、後に桑原は、芭蕉俳句は、第一芸術だと文藝春秋昭和48年臨時増刊号の誌面で述べている。第二芸術論補遺と題して。そこで桑原は芭蕉の付合はたいへん優れたもので、天才的だといってもいい。芭蕉俳句は第一芸術であり、時代のトップを歩いていた芸術だと思う。こう述べている。芭蕉の「サビ」とか「ワビ」とかを真似していればよいという芸術における保守性に力点がかかり過ぎている、無理の伴う現代俳句というインタビューにそう答えている。芭蕉・蕪村・一茶という三つの選び方というのには、必ずしも賛成しない。大きく日本の俳句という観点からいえば、やはり高濱虚子ではないか。と述べている。つまり、桑原氏も全面的に俳諧を否定したわけではないらしい。←某リサイクルショップの不良品からこの雑誌が出てきました。もうぼろぼろで売り物にはならなくてもらったんけどそう書かれてあります。

Twitterという道具

実はつい最近までTwitterをしていました。有名な俳人から僕のような愛好家までたくさんの方々と知り合うことができました。でも、僕はTwitterを閉じてしまった。何故かといえばあまりにも世の中には俳人が多くて、僕自身埋もれてしまいそうだったから。それだけ俳句熱はまだ日本の俳壇にはある。特に若手の方々のツイートを読み勉強しました。まだまだ日本は俳句については先進国だなと思った。でも、今、このコロナ禍で俳句のコミュニティが減りつつある。うちの結社では句会は欠かさずやっている。まさに命がけ。それでも俳句をしたいという人たちが居る。この世の中には表現者で溢れている。僕はそんな自国の文学を大切にしたい。Twitterをかじって思ったこと。

句会が上達の近道

僕が参加させて頂いてる句会は、ほとんどが年配の方です。しかしながら、やはりその熟達した腕前というのにはかなわない。僕などはまだまだ半人前です。世の中にはプロ俳人といわれる作家さんがごく少数存在しますが、年配の句会の先生方の句はそれに劣らない。凄く美しい俳句を詠みます。熟練工のような俳人が世の中にはたくさんいます。僕は句会に参加するようになり、プロへの憧れというものは自分には必要ないと感じるに至りました。句集1冊出していない僕がプロになれるはずがないし、実際、句会に参加するとそんなことより句座を共にする俳句の縁の方がよほど大切だと痛感するのです。今の40代の街に溢れた一人の俳人として僕の気持ちは今そう感じています。やはり句会には参加するべきだと思います。

俳人再び

僕はもう40代前半ですし、若手とはいえもうこれからは俳句に対するある程度、自分に対する力量というものをもっと知るべきだと感じています。もういつまでも若くない。これからは自分に負荷をかけるのではなくて、俳句を「楽しむ」。賞はこの先取れるかどうかはわかりません。僕は凡才なので自分の力量の無さというのは十分理解できています。青春あってその後に、熟した俳句人生が待ってるのだと思います。僕にいえるのは市井の俳人として俳句を「楽しむ」。に尽きる。そう思います。若くして挑戦したことは決して無駄にはならない。そして新たな境地へと入ってゆく。それが俳句であり市井の俳人の在り方だと思っています。

置酒歓語

俳人は俳論を交わすうちによく議論が高じてケンカになることがあったかと思います。今ではネットの世界で意見を交換したりするようになりましたが、昔の作家さんたちは句会でケンカすることが多々、あったかと思います。僕はお酒は飲みませんが、お酒が入ると俳句談義に花を咲かせることがつい最近の昭和ぐらいまではあったかと思います。それだけ俳句に対する熱というか、熱気というか高まりがあったかと思います。ケンカは良くないけど俳句も職人芸の世界です。ケンカがあっても不思議ではない。しかしながら、一方で句座を共にした仲間はかけがえないものだと思います。

金子兜太

僕自身、兜太について勉強不足ですが、兜太はやはり人間探究派に入るのではないか。そう思えるのです。まず、師が楸邨、激論を交わしたのが草田男。やはり人間不在の俳句だとは思えないのです。ただしテクニックについては新興俳句的な要素が強かったので、結果ぼやけてしまいましたが、実際、人間を詠むことに非常に関心があったといえるのではないか。僕にはそう思えるのです。兜太自身、世の中から誤解を受けているのではないか?彼は人間探究派なのではないか、あくまでも私見ですが。

伝統回帰

昨今の伝統回帰は、諸々の俳句のムーブメントの結果、たどり着いたものだと思います。決して伝統から伝統に移行しているのではなく、新興俳句、人間探究派などを経て再び、伝統俳句を考えさせられている。現代俳句故の伝統俳句再考なのだと思います。